都心に人知れず残されたナベトロのお話
昭和時代はちょっとした工事現場でもよく見られたトロッコによる土砂類の運搬。今でも地下トンネルなどの大規模工事では使われることがありますが人目につくことは少なく、ナベトロの現物を見たことがない人も多いと思います。しかし都心のある場所、電車の車窓から見える場所に、人知れず打ち捨てられたトロッコがあるとか…?

昭和時代はちょっとした工事現場でもよく見られたトロッコによる土砂類の運搬。今でも地下トンネルなどの大規模工事では使われることがありますが人目につくことは少なく、ナベトロの現物を見たことがない人も多いと思います。しかし都心のある場所、電車の車窓から見える場所に、人知れず打ち捨てられたトロッコがあるとか…?
1960年代まで熊本近郊にあった2つのローカル私鉄、熊延(ゆうえん)鉄道と山鹿(やまが)温泉鉄道をご紹介します。2つともあまり大きな特徴がないのが特徴…ですが、それだけに典型的なローカル私鉄の普遍的な魅力も湛えていたと思います。
日本では戦後の昭和20年代後半に、路面電車の高性能化というムーブメントが起こりました。その際、アメリカで戦前に誕生していた高性能車「PCCカー」の技術導入を図ったのですが、高価なロイヤリティや技術的な特殊性により日本では結局普及が進まず、誕生したそれら高性能車もおしなべて短命に終わりました。そんなお話を水野が語ります…!
今でもイベント列車などでは必須のアイテムとなっているヘッドマークやテールマーク。その起源は戦前にあり、一旦戦争で途絶えたものの復活して昭和30年代には全盛期を迎えました。その昭和30年代の豊饒な「列車愛称板」の世界をご紹介します。
RMライブラリー288・289巻にて「小湊鐵道」を著された白土貞夫さんは御年90歳ということで、先日そのお祝いとして有志による団体貸切列車「白土号」が小湊鐵道で運行されました。羽山と水野も末席に加えていただきまして、暑い日でしたが日帰り旅を楽しみました。それにしても白土さんのお元気なこと…!
水野が42年前の学生時代に「青春18のびのびきっぷ」で旅した時のメモを糸口に思い出話…! 東京から旧型客車だけを乗り継いで、会津の日中線に乗りに行ったというお話です。
8月に開催された国際鉄道模型コンベンション。エコーモデル50年をテーマとしたトークショーが開かれました。世に創業50年の模型店は他にもあれど、エコーモデルが築いてきた50年は他にはない独自の世界だと思います、瀧口がその魅力を語ります。
貨車の王ともいわれることがある大物車。一般の貨車とは比べ物にならない荷重・サイズの貨物を運ぶため、現在も数両が生き残って年に何回か運転されることがあります。町田さんの地元・小山市にも縁がある大物車について語ります…!
20m級・4扉車体という、現代に通じる通勤電車のフォーマットを作り出した63形。戦時中に粗末な材料・工作で登場したという不運はありましたが、戦後に72・73形として段々と近代的な設計が取り入れられ、それが結実したのが新性能国電第1弾である90系(後の101系)だったのです。その流れを水野が辿ります。
戦前の昭和10年代、私鉄とその沿線の発展期に、「ハイキング」と称して今でいう鉄道の乗り歩きをしたという大変貴重な記録がRM Re-Libraryで復刊されました。その見どころなどをご紹介します!
水野が、発売開始されたばかりの「青春18のびのびきっぷ」(現「青春18きっぷ」)を使って、京都から1泊2日で東京まで乗りっぱなしで戻ってくるという旅の思い出を語ります。ハイライトは紀勢本線・関西本線の夜行普通列車「はやたま」に、天王寺から名古屋まで乗り通したこと。こんな贅沢な旅が、あの頃はできたんですね。
かつて北関東の栃木県・埼玉県にあった2つの小私鉄をご紹介します。ひとつ目は栃木県の東野(とうや)鉄道。東北本線西那須野駅から分岐していました。ここにはあることで妙に有名になった機関車が働いていました。そしてふたつ目は埼玉県の上武(じょうぶ)鉄道。貨物専用線に毛の生えたようなミニ鉄道、1980年代まで一応存在していた割には訪れたファンが少ない、それにはある事情があったようです。
瀧口別冊編集長が、「令和新版 鉄道模型ハンダ付け入門」本の内容についてご紹介します! ハンダ付けを伴う真ちゅう工作、とかくハードルが高く感じられますが、ハンダ付けという技法自体は実は一度理屈を覚えれば接着・充填の万能技法、そして乾燥時間のないスピーディさが手放せなくなるはず…!
トロッコ列車の導入やJRからのキハ40形譲受など、近年活発な動きのある千葉県の小湊鐵道。東京駅から50㎞圏とは思えないくらい、沿線はローカル風景が広がり、最近はSNSでの「映え」写真を撮りに行く方も多いようです。その着工は今からちょうど100年前と、なかなか長い歴史も誇っています。そんな小湊鐵道の魅力を語ります。
国鉄の幹線電化が始まったとき(信越本線碓氷峠は除く)、必要となった電気機関車は先進国からのサンプル的輸入から始まりました。気候風土が異なることから本来の性能を発揮できない機関車を必死になだめすかすようにして運用したことが、後年の国産電気機関車につながったと言われています。生まれもスタイルもバラエティ豊かなそれら輸入電機を語ります!
青春18のびのびきっぷが初めて発売された1982年の春、水野がそれを利用したワンデイトリップで関東一周した時の記録メモが発掘されました! 乗車した列車の時刻や車番が克明にメモされており、当時の情景が手に取るように蘇ります。大変貴重な記録と思いますのでぜひお聴きください…!
RMリライブラリー23巻、湯口 徹さんによる「戦後生まれの私鉄機械式気動車」の内容をご紹介します。漢字の多いタイトルから堅苦しい印象を抱かれるかもしれませんが、内容は驚きの連続。鉄道車両の概念が覆る…と言っても過言ではありません。
国鉄時代の荷物列車最後の主力形式となったマニ50形。本来の荷物車としての役目は10年足らずで終了してしまいましたが、運良く生き延びた仲間たちは様々な特殊用途でも活躍。現在でも「ザ・ロイヤルエクスプレス」用電源車として1両が現役となっています。そんなマニ50形と仲間たちのエピソードを瀧口別冊編集長が語ります!
スハ43系から派生した特急専用の三等車がスハ44系。かつて東海道本線の特急「つばめ」「はと」や東北本線の「はつかり」で活躍しました。しかしその栄光の期間は思いのほか短く、電車や気動車に置き換えられていきます。ダイナミックに鉄道の世界が動いた1950~60年代、一時主役として輝いたスハ44系の生涯を水野が辿ります。
5月5日、大宮車両所にて開催されたJR貨物の機関車撮影会(有料)に羽山が参加した様子を語ります。今はもう見ることができないJR初期の試験塗装機が忽然と蘇ったのはもう感動の一言…! 細部までのこだわりも強烈なものがありました。
Part1では三陸鉄道開業前日、国鉄としての最終日の模様をお伝えしましたが、今回はその日の晩の出来事(ユースホステルでの思い出とか)、そして感激の開業日当日の模様をお送りします。
岡山県の港町・片上と、山中の鉱山の町・柵原を結んだ片上鉄道。平成初期まで頑張っていましたが、廃線から既に30年以上の歳月が流れました。何を運ぶための鉄道で、どうして廃線に至ったのか。そしてどんな車両が走っていたのか。そんなお話を語っております。
RMライブラリーで取り上げている夕張鉄道ですが、ここは規模の大きさや勾配区間があることなどから比較的大型の蒸機を多数擁していたことでも知られています。一方では旅客向けでは先進的な気動車を一挙に導入するなど、ユニークな車両政策が見られました。その面白さを水野が語ります…!
瀧口別冊編集長が、先日開催されたばかりの静岡ホビーショー会場発表新製品から話題のアイテムをご紹介! みんなが語りたくなるあの建物がなんと登場したのです。
1984年4月1日に開業した三陸鉄道。当時は国鉄ローカル線の存廃問題に揺れていた時代でしたが、三陸鉄道はそれまで国鉄が運行していた細切れの路線を引き受け、同時に建設中であった路線を完成させたことにより、三陸地方にまさに輸送の革命を起こした存在でした。今回はその開業の前日、国鉄として最後に運行された日の模様を水野からお伝えします。
長野県上田市には今でも上田電鉄が活躍していますが、かつては上田駅を中心に各方面に路線を延ばした、地方としては規模の大きい上田丸子電鉄があり、今の上田電鉄(別所線)もその一部でした。廃止となって久しい丸子線、西丸子線、真田傍陽線といった各路線の模様を、RMリライブラリーの新刊を見ながら語ります。
今回は瀧口別冊編集長が、往年の名機・EF57を語り明かします…! ゴナナと言えばデッキ付き車体に突き出したパンタグラフが勇壮なイメージを醸し出していますが、そのデッキ部分にかつては乗客が乗ってしまったことがあったとか。今では考えられないそんなエピソードを交えてお送りします。
炭鉱の町として知られた夕張市ですが、現在人口は1万人を割って公共交通の維持にも苦労していると報じられています。そんな夕張市ですがかつてはバスとの連携で札幌市との直結を図った私鉄=夕張鉄道が存在しました。その盛衰をお伝えします。
去る3月16日、JRグループのダイヤ改正が行われ、北陸新幹線敦賀開業など華やかな話題から、車両の引退といった寂しい話題まで、様々なトピックがありました。今回はその一部をかいつまんでお伝えします。
ご存じ飯田線のエキスパートの水野ですが、すべての駅間を歩いたことがある、という奇特な経験の持ち主。その彼をもって「最難関だった」と言わしめたのが1991年時点での大嵐~水窪間で、線路付け替えの関係で線路自体はトンネルで抜けるところを、徒歩だと山越えになるというもの。果たして想定以上の難関ルートとなった理由とは…?